1975年生まれ。文筆業。神奈川県茅ケ崎市出身。2024年2月に最新作『虎の血-阪神タイガース謎の老人監督-』(集英社)が発売。著書に『4522敗の記憶』(双葉社)、『止めたバットでツーベース』(双葉社)、『気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』シリーズ(講談社)などがある。
2024.03.04
「ラクにいけ」
それができたら苦労しないのだ。
子どもの頃、野球をやっていた。一打逆転チャンスの打席、二死満塁、大ピンチのマウンド。そんな場面で聞こえてくる言葉はいつも同じ。
「ラクにいけ」。
おそらく野球というスポーツにおいて、仲間に掛ける声の1,2を争うこの言葉。大嫌いだ。これを言われて、ラクになれるやつは「ラクにいけ」とは言われない。いけないやつに限って、周りは時候の挨拶のように言い放つ。「どう見てもラクになれねえだろ」という、ガチガチの選手が出てきた時などは圧巻だ。ここぞとばかりに全員が一斉に吼えはじめる。
ラクニー! ラクニー!
だからどうやってだよ。人の気も知らず、ふざけんな。ずっと思っていた。
好きな三国志の武将は楽進。猪突猛進の切り込み隊長。表向きは勇猛さに憧れるも、何より名前がいい。ラクに進む。
生まれついての肝っ玉の狭小さ故に「ラクになりたい」と言い続けて約半世紀。中学生、最後の夏の大会でサヨナラエラーをやらかした。高校生、はじめての愛の告白の最中に屁をこいた。社会人、緊張で眠れなくて面接試験に遅刻した。無惨である。人生の岐路を決する場面。思いが強くなればなるほど、リキむ、カタくなる、考えすぎる。
自分にとってどうでもいい局面は問題ない。反応で動ける時もいい。火を噴くような当たりのライナーには飛びついて好捕する。だが、高く上がった内野フライはどうだ。人間は考える葦である。時間があると、余計なことを想像する。自分を疑う。緊張で固まる。
ガチガチに固まった緊張を解きほぐすにはただひとつ。己が持てる力を引き出してくれる『平常心』と『集中力』に頼るしかない。そして、これを引き出す力が、リラックスだ。
俺たちは、いつだってリラックスの扉の前にいる。この中に入り心地よいα波に乗ってしまえば、ある程度の出来事はうまくいくのだ。
だがこの扉がなかなか開かない。物書きを生業にしてからというもの、原稿の制作時間のほとんどはこの扉をこじ開ける作業だ。作家の友人はこれを『神を降ろす作業』と仰々しく喩える。供えたはずの酒は美味しくいただくそうだ。
俺はこの扉を開けるため、様々なカギを合わせてきた。今だってそうだ。パソコンの前に向かい、背筋を伸ばし、ストレッチ。深呼吸して全集中……さぁ原稿だ。いや、お香を炊いてみよう。ガムを噛み、焚火の音のYoutubeを見て、気づいたら4時間が過ぎ、散歩に出て、半身浴をして、横になる。α波が出たと思ったら、ぐっすり眠っていた。
〆切を過ぎた朝が来る。
開き直って小学4年生になる息子を少年野球に送りに行く。案の定、試合でガチガチ。さすが俺の子だ。
「ラクにいけ!」
言ってはいけない言葉を、思わず口にしてしまっていた。時を超えリラックス呪縛の螺旋に絡めとられている自分に絶望する。しかし、わかっていても言いたくなってしまう見事なまでに自信の無い息子の姿。愛おしい! あれはどう見ても昔の俺。あいつもこれから俺の青春時代と同じような苦しみを味わうと思うと……どうにかならないものだろうか。
おそらく俺もハタ目にわかりやすく塞ぎこんでいたのだろう。メンタルコーチもやっているという指導者の方が、こんなことを教えてくれた。
「お父さん、集中するには『楽』をラクではなく、タノしむと読むことです。そのためには、日頃から成功して喜んでいる姿をイメージすること。あとは、緊張してしまったらなんだかんだで、深呼吸が一番効果的です。4秒吸ったら息を止めて、8秒ゆっくり長く息を吐く。そうすると自律神経が整って、リラックスしやすくなりますよ」
試合の帰りに、そのまま息子に伝えてやると「野球は好きだし楽しいから大丈夫だよ」と頼もしい言葉が返ってきた。俺は小学校から高校まで、野球をやっていて、楽しいなんて感じたことは一度もなかった。それだけでも彼は俺とは違う道を進んでいくのだと信じたい。
そしてこの不肖の父も新たなカギを見つけた。家に帰り再び机の前に座る。教わった通りに時間をかけて深呼吸をしてみる。
気がつくとリラックスの扉は開かれていた。あれだけ進まなかった原稿が、アルファの波に乗ってみるみる進む。あれはさらなる集中力を生むシータ! そうだ。土に根をおろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春をうたおう。
毎回、終わってしまえば実にあっけないものだ。そして戦いの後は、しばらくは脳の興奮状態が続いてしまう。
とても寝つけやしないので、動画を見ていると、世界で最もヒットを打った偉大なるイチローがこんなことを言っていた。
「緊張を楽しむことなんてできない。無理無理。そこに立ちたいなら覚悟を決めるべき」。
さすがはイチローだ。〆切という断崖絶壁に追い込まれ覚悟を決めるしかなくなっただけの俺を、ちゃんと見透かしている。
人生はラクになるためのカギを探す旅だ。俺はまた、リラックスの扉を開ける術を求めて旅に出かける。
Writer
村瀬 秀信